五色桜ものがたり


石川広正 制作担当:手島繁一

明治43年(1910年)4月 荒川土手

明治43年(1910年)4月、荒川土手は雑踏を極め、人の波で埋まりました。王子、田端から渡し舟で来る人。下流から蒸気船で来る人。千住から徒歩で来る人。
  4月24日には、二頭立ての馬車で裕仁皇太孫(後の昭和天皇)、秩父宮、高松宮の三親王が桜見物をされました。
 1912年、荒川の「五色桜」の苗木3000本が横浜港からワシントンに輸送され、ポトマック河畔に植樹されました。
荒川堤五色櫻
CHERRY BLOSSOMS ARKAWA TOKYO
「極彩色コロタイプ 荒川五色櫻」シリーズ(精華堂)より

舩津静作コレクション
舩津金松氏 所有(江北三丁目在住)

五色桜発祥の地

  今日の荒川土手は、当時武州熊谷から千住に至る40〜50kmの堤防で、高さは3m程でした。俗に「熊谷堤」と言われていました。
 1885年千住大橋が流される程の大型台風が関東地方を襲いました。熊谷堤も甚大な被害を受けました。
 1886年江北村村長の清水謙吾氏は、堤防修復工事と共に桜の植樹を提案しました。@休憩が出来る木陰を作る。A洪水の時に船をつなぐ。B堤防を堅固に保つ並木にする。と言う提案でした。費用は、村人の「カンパ」でした。沼田村、鹿浜村、鹿浜新田、加賀皿沼、堀之内村、宮城村、小台村、領家村の169名と高野村、本木村からの拠出金でした。当時のお金で295円ものお金が集まりました。
 同年、3225本78品種の里桜(山桜を品種改良した桜の総称)の苗木が植栽されました。川口との県境から西新井村に掛けての5.9kmの両岸でした。
 
 3月頃から、寒桜系や彼岸系の桜が咲き始め、下旬から吉野、白雪などが咲き、中旬から一葉などの八重桜が最盛期となりました。ほとんどが里桜でした。花の色にいろいろあるので、新聞記者が「荒川の五色桜」と名付けたと言われています。
 多数の村人の物心共の協力があって「五色桜」は花開かせたのですが、次の4人の尽力が無ければ実現できませんでした

五色桜四人衆

清水謙吾:江北村村長(1889〜1897)「五色桜」の提案者。1840年、堀内庄右衛門の次男として生まれ清水家の養子となり、学問に長じ高い見識を持っていました。桜の植樹に付いても当時流行のソメイヨシノではなく、「里桜」にこだわりました。              
 
高木孫右衛門:駒込「梅芳園」の主人。明治維新の際、大名の江戸屋敷は、住んでいた人たちが藩地に引き上げてしまったため、屋敷が壊され、桑畑や茶畑にされました。大切な樹木も伐採され、高木は、残された名木を自邸に集め記録し保存しました。清水謙吾氏とは、旧知の間柄。収集した、さくらの苗78品種3225本を提供しました。こうして、庶民では中々鑑賞できない日本各地の名木の苗木を荒川土手に植樹することになりました。
 
船津清作:清水謙吾塾の門下生。植栽後の維持管理に尽力し、「五色桜」を守った第一人者。国内だけでなく、ワシントンのポトマック河畔やイギリスのケント州への苗木の移送にも関わり、世界を代表する「さくら」の専門家。
 
小清水亀之助:安行の苗木栽培家。船津静作氏と親交のあった松本伝太郎氏の後を引き継ぎ、里桜の苗木を保存しました。第二次大戦中、食料作物を植えるよう命令されましたが、同氏は品種の絶滅を憂え、特別の指定を受け、「里桜」を守りました。1970年の時点で100種程の「里桜」が保存されていました。

五色桜の消滅・・・公害・河川改修工事・戦争

    
 1895年対岸の王子に大規模な化学工場が操業を開始しました。煙突から亜硫酸ガスを排出し、近隣一帯に被害を及ぼしました。「五色桜」も例外ではなく、当時の内務大臣への請願にも「荒川堤上ノ五色桜ハ、其ノ瓦斯ニ接触スル半面部ハ枯死シ、花弁ハ黒死シ・・・」とあり、病害虫を誘発するなど放置できない状況でした。
 
 1910年、埼玉県名栗の集中豪雨で荒川の多くの堤防が決壊。東京の下町のほとんどが泥の海となりました。死者369名、浸水家屋27万戸。
 1911年、政府は、「荒川治水法案」を成立させ、明治の大プロジェクトが決定されました。荒川放水路開削事業の始まりです。延べ310万人が働き、約20年間に及ぶ巨大工事でした。「五色桜」も例外なく伐採されました。船津金松氏の資料によれば、『1916年には51種、555本。1920年には50種、521本。この年の11月に60種、600本を補植したが成育思わしくなく、1923年には、42種505本。1930年には38種328本。』に激減していました。
 
 1924年、このまま放置すれば「里桜」の一大名所が失われてしまうと言う危惧から、三好学博士(植物生理学の第一人者)の提唱により「史跡名勝記念物」に指定されました。  しかし、1930年41種412本となり、その後補植したものの、第二次世界大戦が始まり、「さくら」どころではなくなりました。
1945年終戦・・・・・
1947年。「さくら」は「薪」になり壊滅しました。
                
                参考資料     船津金松氏「ワシントンのサクラ 里帰り」
                        樋口恵一氏「平成14年4月13日講演記録」
                        根本光子氏「あらかわ学会年次大会1999」
 

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